TPPと農業保護とを同じテーブルで話すのは違う
イントロ
FTA、TPP
ものづくりの国日本で製造した高品質な製品の輸出拡大を図り、日本経済を国益を確保するというもの。
しかし、こうした製造品輸出拡大の話とは必ずセットで出てくるのが、農産物の輸入制限緩和のお話。
だから結局国内的には、国益という大局的視野に欠けた農家のワガママが経済協定を邪魔する、という論調に落ち着きます。
経済と農業の二項対立。
こうした考え方に至る背景には、
「農業は産業として自立していく必要がある。今の日本の農家は保護されているから競争力がない。自由化し、競争力のある農家に農地を集約していくべきだ」
というものがあると思います。
農業は「産業」として捉えるムリ
いきなり僕の考えを言っておきます。
はっきり言って間違ってます。
何が違うのか。
農業を製造業や加工業と同じ意味で「産業」と捉えることが間違っています。
農業は経済的な価値に軸足を置くのではなく、食料保障、安全保障に軸足を置いて考えるべきです。
農業は遅れている?保護されている?
農業が日本経済の足を引っ張っているかのように言う人たちは、農業はまだまだ非効率的で、イノベーションが起きれば、農地を集約すればもっと効率化できる、ということを言いますね。
一面では正しいと思いますよ。
ただ、きちんと認識すべきこととして、農家は農業はすでに大きなイノベーションを起こしてきたということ。
その結果、生産効率はきわめて高いレベルにあることを認識すべきでしょう。
要するに、これまでに長年かけて知恵を絞り、効率的に生産するためにはどうしたらいいのかを考え、技術開発もして今のレベルにたどり着いた。
そんな時に、他者が勝手に「日本の農業は効率が悪い」と批判するのは的はずれと言わざるを得ないでしょう。
さらに「外国との競争力をつけろ」?
それは外国産に負けないくらい安価に食料を提供しろということ?
そんなものはどだいムリではないでしょうか。
日本のように国土が狭く、そのなかでもさらに農地は限られている条件と、だだっ広い農地で超大規模化が進んでいる農地のような条件ではあまりにも違いすぎる。
農地が集約されていないんだからさっさと集約しろという論もあるでしょう。
そして、それができる地域もたしかに国内にはあるでしょう。
しかし、国内の農業のおよそ4割は中山間地域が支えています。
ちょっと分かりにくいですが、冒頭で示している写真は中山間地域の農地で草刈・草寄せをしている様子です。
畦畔の勾配がかなり急なことがわかると思います。
ひとつの圃場が1町歩(1ha)もない、7〜8反(70〜80a)ほどの田んぼが、急な勾配で段々に連なる。日本の原風景とも言えるかもしれませんね。
でも、そんな段々になっている農地をどうやって集約できますか?
ひとりの人、ひとつの組織に一括して管理を任せれば、ある程度の効率化は図れるでしょう。さらに高齢で作れなくなった農地なんかの引き受け手になってくれれば地域としての生産力は維持できるでしょうね。
だからといって、そんな集約で外国産農産物に太刀打ちできるほどの効率化ができると思いますか?
単位面積当たりの生産量に上限がある以上、農地が狭い日本で国際競争力をつけろというのは画餅もいいところです。
いい加減、農業を産業として自立していない、がんばれば自立できるはずという幻想にしがみつくのはやめませんか?
加工・製造業とは違う、ということを認めるところからスタートしないといつまでたっても同じ議論(かつ無意味な)を繰り返すだけでしょう。
農業者はがんばらなくていいのか?
じゃあ、農家は今までと同じようなあり方でいいのかというと、そうも言ってられないと思います。
やはり他人に使わせたくないという農家もいると思います。
まず、作れなくなったらきちんと作れる人/組織に任せる、資本として集約させる仕組みはいるだろうと思います。
その試みが地域貢献型集落営農や、中山間地域等直接支払制度だったりするのでしょうが、十分な成果があがっているとは言いがたいかな?
農家のがんばりというのは、自分の言葉で価値を伝えること、わかってくれる顧客を見つけることなどが必要かなと感じてます。
神門善久氏などが指摘している、用地買収にかかってくれればいいやみたいな兼業農家もいるのかもしれません。
しかし、僕が接してきた兼業農家の多くは、「半農半X」という形でもしっかりと生産し、誇りを持って農業に取り組んでいます。
まあ、そのあおりをやる気ある専業農家が食う形になってはいけないと思うので、よくよく考えていく必要はあると思いますが。
イザとなったときに本当に困るのは誰?
食糧危機は来ない、という論調もありますね。*1
まあ、当面はないかもしれません。
だからといって、「杞憂に過ぎない」というほど楽観的でいいのか?と思いますね。
食糧保障ですよ?イザというとき、国民がとりあえず食っていけるように保障することが重要なんであって、その可能性について杞憂だとかどうとかを論じるのは違うんじゃないのかなぁ。
それに、万が一そんな事態が起きて困るのは誰ですか?
おそらくはこの記事を書いている僕やたまたまでもこの記事を見てくれている貴方でしょう。
農家は食うに困りません。米だけでなく、野菜なんかも作ってるからあとはタンパク質くらいですか。それも大豆でこと足りるかもしれませんね。
ぼくが中山間地域に住んで学んだことの一つに、農家はおそろしくがまん強く、そしてそれぞれの農家の「生きる術」というものの偉大さがあります。これは本当に頭が下がります。
もしも、食糧が足りない!そんな時になって、農家からお金で買えるんでしょうかね?個人輸入でもするんでしょうか?
本当に自分たちの食料が、実はとても不安定な土台の上で何とか成立している、ということを理解した上での議論なんでしょうか。
経済的な発展がどうでもいいわけじゃなくて、農業の今、農家の今、そしてこれからを真剣に描いた上での話なんですか?ということです。
ぼくがよく読んでいるブログより転載します。
やってみた失敗した・・ではすまないのが食の問題だと思います。あえて言うなら困るのは農家なの?
引用:やまけんの出張食い倒れ日記
http://www.yamaken.org/mt/kuidaore/archives/2010/11/tpp_2.html
*1:食糧危機がまだ心配?4つのリスクは杞憂に過ぎない,http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4791
Facebookから刺激をもらう の巻
(c) ピクタ|写真素材 PIXTA
最近、久しぶりにFacebookをいじってます。
あいかわらずよく分からないことが多いんですが、それでも面白いなーと思うことがいくつか分かってきた。
そのうちの一つ。
面倒くさがらずに、興味を持った相手にどんどん友だちリクエストしていったほうがいいな、ということ。
正直、この友だちリクエストはGreeやってたころにめちゃくちゃ疲れてもうしたくないなと思ってたんですよ。
ただ、FacebookとGreeとはやってる層が違うのか、それともソーシャル・ビジネス、ソーシャル・エンタープライズへの関心が高まってきているのか、元気な人たち、地域を元気にしたいと思う人たちが多いように思います。
FacebookやTwitterでざっぱくなことを書いていて、「あー。ブログでまとめて書きたいなー」と思ったことがいくつかあったので、これらも近いうちにまとめてアップしたいと思います。
ソーシャル(社会)という枠の中で何ができるのか、何をしたいのか。
最近の自分は腑抜けもいいところなんで、いい刺激をFacebookから得たいなと。
それでは、また!
中山間地域でパラダイムシフトが起きる
(c) hirofu.t|写真素材 PIXTA
一つ前の記事で、『本質を見抜く力』についての感想を書きましたが、そこから自分の中でヒートアップした結果、長々と書いてしまいましたので、別記事としてこの記事を書いています。
■問題意識
僕の中での問題意識は次の点です。
それは、行政の効率化という視点から、地方とくに中山間地域の消滅一歩手前の集落やいわゆる限界集落を想定した発言です。
両氏とも、山奥に一軒だけあるような集落でも、行政の公平性から道路の維持などが必要になるが、それは非常に非効率である、という指摘をしています。
この中で指摘されている、山奥の住居を捨てて町なかへ出てこさせることで行政コストを押し下げようという趣旨はわかるんです。
たしかにそれができる所はそれで良いと思います。
その結果、中心部がコンパクトシティとして機能すれば、寂れていた中心市街地のシャッター通りも賑わいを取り戻すかもしれない。
しかも、住民が集住していればさまざまな面で効率的ですね。
しかし、現在山奥とは言え、住んでいる人たちに無理やり移住させることが良いのか。
この一点に尽きると思います。
誰しも、生まれ育った家あるいは嫁いできたとは言え、長年暮らしなれた家で住み続けたいという意思は尊重されるべきものであるだろうと思うわけです。
たしかに、そんな一人ふたりのワガママを聞くことで年間数百万円〜数千万円のコストをかけていのかという議論はあってしかるべきかと思いますが……。
ここからは個人的な期待というか、この10年間で中山間地域を中心に住居面でのパラダイムシフトが起きるのではないかと予測しています。
まず一点目の理由。
『本質を見抜く力』の中でも指摘されているように、こうした条件の悪い地域にある種こだわりを持って暮らしているのは、ほとんどが何世代にもわたって暮らしてきている高齢者です。
もう少し具体的に言えば、おおむね70〜80歳くらいの方々で、多くは独居。次に、夫婦ふたり世帯といったところです。
非常に冷たくドライに言えば、10年後のこの方々の年齢を考えると相当に減っていることが予想されること、残った方も何らかの理由で福祉サービスをさらに必要とされるであろうことが予想されます。
そうなると、「代々暮らしてきたんだ」という強いこだわりを維持することはなくなるんではないかということが一点目です。
二点目の理由。
彼ら/彼女らの子息はほとんど戻るつもりがない。
彼らの子息は時代的にはだいたい金のたまごと呼ばれた団塊の世代やその少し下くらいです。
そういった世代はふるさと回帰への憧れや責任感は感じても、実際に生家に戻ることはないでしょう。
なにしろ、彼らは親から「田舎にいたらつまらん。都会へ行け」と教育されてきた方です。
それがすべて、とは言わないまでも、やはり幼い頃から田舎=ふるさとを「つまらない」と教えられてきたら、その田舎に戻るモチベーションは高くないことが想像されます。
仮に、地域に戻ったとしても、生家から30分〜1時間程度の近場の市街地などを選択すると思われます。
つまり、次の世代に世代交代した場合、生家への執着などが相当に薄まるものと予測できます。これが二点目の理由。
三点目の理由。
行政のあり方も大きく変わるのではないかと思います。今までのような一種の馴れ合いと、文句を言われては敵わん、という妙な心理的壁。これらが融け合い、混じり合っていくのではないかと思います。
道州制の導入などもにらむと、地域の事は地域で考えていかなければならない。
そうなってくると、今の市町村レベルはさらに住民とともに考える場面が必要になるでしょう。
もちろん、そうなるためには行政サイドの意識が変わることも必要ですし、住民も意識を変える必要があります。
要するに、「協働」という言葉を単にかけ声で終わらせるのではなく、実際に一緒に考え、一緒に行動するようにしていかなければならなくなるでしょう。
その中から、住民は多少のワガママは抑え、行政は多少の批判は覚悟し、思い切った政策を撃ち出していく必要性が高まります。また、それを実行しなければならないくらい、財政的に追い詰められるところも出てくるのでしょう。
これが三点目の理由です。
こうした理由から、中山間地域の今後10年間は大きくシフトしていくのではないでしょうか。
少しずつ、少しずつ縁辺部から町の中心部へ、町の中心部から地方都市へと人口移動を政策的に展開するようになるのではないか。
個々人の自由意志に基づく移動ではなく、政策的にシフトさせるという点でパラダイムシフトであると認識しています。
『本質を見抜く力』
(c) amadank|写真素材 PIXTA
以前、一度読んだ本ですがもう一度読み直しています。
『本質を見抜く力』
著者は、養老孟司と元国土交通省官僚の竹村公太郎。
そこに農業問題に鋭く切り込んだ神門善久が加わる。
内容的にはとても面白く、興味深い話しも多数展開されます。
しかし、一点どうしても気になる点がありました。
最初に読んだときも引っかかったんですが、時間を置いて2度目でもやっぱりスルーさせるのは難しいです。
それは、行政の効率化という視点から、地方とくに中山間地域の消滅一歩手前の集落やいわゆる限界集落を想定した発言です。
両氏とも、山奥に一軒だけあるような集落でも、行政の公平性から道路の維持などが必要になるが、それは非常に非効率である、という指摘をしています。
さらに、解消するためには、市街中心部へと移住させる政治判断が必要である、としています。
現在住んでいる住民への多少の配慮らしきものは感じられるのですが、それでも相当にドライだなーと感情的には思いました。
ここから先、いろいろと書いたんですが本の内容から大きくズレていったので、別記事にしたいと思います。
「本質を見抜く」というタイトルに偽りなし、というのが感想です。
何度も何度も時間を置いて読んでみると、また新たな発見というか、気付きがありますね。
良書です。
それでは、また!
本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー (PHP新書 546)
- 作者: 養老孟司,竹村公太郎
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2008/09/13
- メディア: 新書
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お米でできた炭酸飲料
9月も中旬に入り、ようやく朝晩の気温が涼しくなってきましたね。
それでも日中は暑くてかないません。
外出する用事があり、帰社途中にローソンに寄ったところ、『二代目米づくり』などという商品が目につきました。
それがトップの写真なんですが、JTと大関の共同開発による商品だそうです。
写真見てもらえばわかりますが大関のシールが貼ってあります(笑
それを意識してか、米の飲料といえば日本酒、というイメージの強さのためか、ラベルには「お酒ではありません」という表示も。
味については、もっと美味しくないと想像してましたが、意外と美味しいです。
イメージとしては乳酸飲料系の味ですっきりした飲み口です。
ぶっちゃけて言えば、カロリーゼロ系の飲み物の方が圧倒的にまずいです。
米の利用
最近の流れの中ではこれまで、米の利用というと米粉、米粉パン、米粉を使った麺への加工などが中心でした。
もちろん、地域によっては地元酒造メーカーと組んでローカルな日本酒を製造してきたりもしていましたが、普通の飲料、炭酸飲料という発想はありませんでした。
そういう意味では面白い商品ですね。
これならおいしい米でなくても良いでしょうしね。
そして思ったこと。やっぱり、いくら米の消費のためとは言え、美味しくないと駄目だろうなーということ。
カロリーゼロ系のまずさと言ったらないからなぁ。
そういう意味では、この『二代目米づくり』は美味しくてイイ!
もう一度飲んでもいいなと思える美味しい商品でした。
それでは、また!!
弓削島の「しまの会社」は面白い
2010年8月。そこは気持ちの佳い島でした。
しまの会社を視察
8月21〜22日の行程で、愛媛県上島町を訪れました。
視察先は、トップの写真のカフェを運営している「しまの会社」。
この会社は、もともと同じ愛媛県の西条市出身の方が弓削島にIターンしてわずか半年足らずで設立されたものですが、しっかりと地域の中でも中心的役割を果たしす方たちから信頼を得ている会社です。
ソーシャル・エンタープライズの難しさ
その目的は、人の縁を大事にしながら町が良くなること。
つまり、金にならないこともしていかなければならないことを踏まえた会社なんですね。
僕は会社を経営したことがないので、正直どんなもんかわかりませんが、想像すると経営的には相当に厳しいだろうなと思います。
なので、この1年2年が勝負だと仰っていた。
金にならないことが大事で、やっていかなければいけないから、今は収益があがる仕組みを確立させる時期であると。
しまでカフェ
そんなわけで、僕らは21日の夕食、22日の昼食を「しまでカフェ」でいただきました。
しまでカフェでは、島で取れた摘み菜をふんだんに使った料理、隣の島で生産されているレモンポーク、瀬戸内で取れる魚などをいただきました。
これが摘み菜を使ったサラダ。名前は失念!美味しいんだけど、ちょっと粗いなーという印象の味。
もともと自生していた野菜を「摘み菜」として活用していく発想は素敵です。
でもって、太刀魚の煮付けとレモンポーク。これはどちらも本当に美味しかった。
レモンポークは弓削島の隣の島、岩城島で生産されているもので、レモンをそのまま食べさせているとか?
このレモンポークを使った料理は、22日のカレーでもいただいたんですが、身は柔らかいんだけど噛みごたえもある美味しい肉でした。
自分の中での将来像
僕は、いずれは起業したいという風に考えています。ただ、その時に今のお客さんがそのまま顧客になるとは考えていません。そんな甘いもんじゃないと思うし、事実そうだろうなぁ。
でも、深い付き合いをさせていただいている人とは顧客ではなくても、何らかの形でつながりを保っていければいいなとは思う。
ソーシャルエンタープライズとしての起業家とは何度か会って話を聞いてきたけど、今回のしまの会社の話は一番しっくりと来て、希望をひとつもらえました。
しかし、不安ももらいました。
それは企業体としてどう存続させていくのかということが難しいということ。
この点については本当によく考えていかないといけない。
ところで、ひとつの考え方として、ソーシャルエンタープライズなんてものはいらなくて、企業が継続していくことで雇用が生まれ、ひいては地域に貢献している。むしろそれしか企業としての地域貢献はない、というものがあります。
頭ではこれは理解できますが、どうしても納得行かないので、僕が目指すのはやはりソーシャルエンタープライズかなー。
それでは、また!
最後は瀬戸内で見た夕焼けです!