中山間地域でパラダイムシフトが起きる
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一つ前の記事で、『本質を見抜く力』についての感想を書きましたが、そこから自分の中でヒートアップした結果、長々と書いてしまいましたので、別記事としてこの記事を書いています。
■問題意識
僕の中での問題意識は次の点です。
それは、行政の効率化という視点から、地方とくに中山間地域の消滅一歩手前の集落やいわゆる限界集落を想定した発言です。
両氏とも、山奥に一軒だけあるような集落でも、行政の公平性から道路の維持などが必要になるが、それは非常に非効率である、という指摘をしています。
この中で指摘されている、山奥の住居を捨てて町なかへ出てこさせることで行政コストを押し下げようという趣旨はわかるんです。
たしかにそれができる所はそれで良いと思います。
その結果、中心部がコンパクトシティとして機能すれば、寂れていた中心市街地のシャッター通りも賑わいを取り戻すかもしれない。
しかも、住民が集住していればさまざまな面で効率的ですね。
しかし、現在山奥とは言え、住んでいる人たちに無理やり移住させることが良いのか。
この一点に尽きると思います。
誰しも、生まれ育った家あるいは嫁いできたとは言え、長年暮らしなれた家で住み続けたいという意思は尊重されるべきものであるだろうと思うわけです。
たしかに、そんな一人ふたりのワガママを聞くことで年間数百万円〜数千万円のコストをかけていのかという議論はあってしかるべきかと思いますが……。
ここからは個人的な期待というか、この10年間で中山間地域を中心に住居面でのパラダイムシフトが起きるのではないかと予測しています。
まず一点目の理由。
『本質を見抜く力』の中でも指摘されているように、こうした条件の悪い地域にある種こだわりを持って暮らしているのは、ほとんどが何世代にもわたって暮らしてきている高齢者です。
もう少し具体的に言えば、おおむね70〜80歳くらいの方々で、多くは独居。次に、夫婦ふたり世帯といったところです。
非常に冷たくドライに言えば、10年後のこの方々の年齢を考えると相当に減っていることが予想されること、残った方も何らかの理由で福祉サービスをさらに必要とされるであろうことが予想されます。
そうなると、「代々暮らしてきたんだ」という強いこだわりを維持することはなくなるんではないかということが一点目です。
二点目の理由。
彼ら/彼女らの子息はほとんど戻るつもりがない。
彼らの子息は時代的にはだいたい金のたまごと呼ばれた団塊の世代やその少し下くらいです。
そういった世代はふるさと回帰への憧れや責任感は感じても、実際に生家に戻ることはないでしょう。
なにしろ、彼らは親から「田舎にいたらつまらん。都会へ行け」と教育されてきた方です。
それがすべて、とは言わないまでも、やはり幼い頃から田舎=ふるさとを「つまらない」と教えられてきたら、その田舎に戻るモチベーションは高くないことが想像されます。
仮に、地域に戻ったとしても、生家から30分〜1時間程度の近場の市街地などを選択すると思われます。
つまり、次の世代に世代交代した場合、生家への執着などが相当に薄まるものと予測できます。これが二点目の理由。
三点目の理由。
行政のあり方も大きく変わるのではないかと思います。今までのような一種の馴れ合いと、文句を言われては敵わん、という妙な心理的壁。これらが融け合い、混じり合っていくのではないかと思います。
道州制の導入などもにらむと、地域の事は地域で考えていかなければならない。
そうなってくると、今の市町村レベルはさらに住民とともに考える場面が必要になるでしょう。
もちろん、そうなるためには行政サイドの意識が変わることも必要ですし、住民も意識を変える必要があります。
要するに、「協働」という言葉を単にかけ声で終わらせるのではなく、実際に一緒に考え、一緒に行動するようにしていかなければならなくなるでしょう。
その中から、住民は多少のワガママは抑え、行政は多少の批判は覚悟し、思い切った政策を撃ち出していく必要性が高まります。また、それを実行しなければならないくらい、財政的に追い詰められるところも出てくるのでしょう。
これが三点目の理由です。
こうした理由から、中山間地域の今後10年間は大きくシフトしていくのではないでしょうか。
少しずつ、少しずつ縁辺部から町の中心部へ、町の中心部から地方都市へと人口移動を政策的に展開するようになるのではないか。
個々人の自由意志に基づく移動ではなく、政策的にシフトさせるという点でパラダイムシフトであると認識しています。